目次
まえがき
◦代筆を通して依頼人と交流を交わす中で、戦争孤児である少女が自らの失った心を拾い集める。
その過程において「感情」という曖昧な概念の解像度を高める作品構成になっている。
その意義と意味を問う本作の主人公は人間の番人の様な存在といえる。
◦この作品(原作)はアドラー心理学(個人心理学)を下敷きに産み出されたのではないかと感じた。
時代背景も通ずるものがある。
劇中で描かれる時代設定は1900年頃、劇場版では1960年頃。)
嫌われる勇気が刊行された数年後に、本作が発表された事は故無しとは個人的には思えなかった。
…とまぁ、半ばこじつけではあるが、
アドラー×ヴァイオレット・エヴァーガーデンでひとつ記事を書いてみたかったのである。
(※以降、嫌われる勇気で語られるアドラー心理学の解説を参考に話を進める。)
◦ *1 個人心理学においては、(知的障害者はその限りではないが)
人間は常に*2 ライフスタイルに従い行動するというのがアドラーの見解であり、
故にライフスタイルさえ変える事が出来れば、人間は変わる事が出来ると豪語する。
その独自性は*3 原因論(特に*4 トラウマ)を否定する点にある。
トラウマが直接的に不幸を招いているのではなく、ライフスタイルに則ったその人間の目的であり動機が始めに存在し、それが現在の状況を作り出していると考える目的論に則っている。
ライフスタイルを変える必要性を殊更に強調する理由はここにある。
本作も同様に、過去は関係なくその人の持つ未来への可能性を信じるというスタンスで描かれてきた。
彼女は代筆に関わる中で、「人生の無益な方面へ向かおうとしていた」依頼人を導き、彼らのライフスタイルの転換を果たしてきた。
物語を通して、結果的に彼女の言動が*5「勇気づけ」に繋がったという所に彼女のアイデンティティが伺える。
自分を操作しようとする他者を人間は敏感に感じ取るものであるが、
ヴァイオレットの純粋無垢さが彼らに勇気を与えたと言っても良いのではないだろうか。
◦アドラーは仕事、交友、愛の3つのタスクを人生の課題として挙げている。
最終的に幸福の定義を他者貢献感とし、故にこの三つのタスクは(社会の調和という面においても)人生において万人が立ち向かうべきものとしている。
長々とアドラー談義が続いてしまったが、
アドラー心理学を高純度に芸術作品として描き出したのが本作なのではないか…という一文を書きたいが為の前置きであった。
特に劇場版「愛する人へ送る最後の手紙」では人生の課題が顕著に描かれたと感じる。
このテーマ自体は原作に由来するものであろうが、映像という芸術はアニメーションに準拠するものであろう。
常々思うが京都アニメーションは原作昇華の化け物なのではないだろうか。
一話
退院祝いとしてぬいぐるみを当時(約)14歳のヴァイオレットちゃんに血走った目で差し出すあたり、この時社長は早くも家族計画に目覚めているのか…
二話
◦少し目先を変え、彼女がASDであった場合のシーケンスを想像してみた。
全く別の美しい作品になる気がする。
レインマンなど有名であるが、現代こそそういった作品の一つや二つ生れても良いと思う。
ただそういった形質を携えた人間が描かれる作品の多くは当事者によるエッセイ止まりであったりするので、本作のように昇華させた作品として味わってみたい想いがあるのである。
三話
◦この作品に聖地は存在しない(京都文化博物館は例外であるが)
西洋的雰囲気という事しか伺えないが、「この辺りではないか」という事で知り合いに例の夕焼けを撮ってきた人がいて、すごいなと。大人の聖地巡礼やなと。
◦普通の中に美人が入っている 美人の中に普通が入っている。
前者の方が好みなのだが、
つまり何が言いたいかというと、私はルクリアちゃん推しです。
四話
四話では青色のアイリスが描かれた。
「強い希望、大きな志、信念」
花道というワードと言い、脚本に統制が取れ過ぎている。
この作品に隙はあるのか。
六話
五話以降から彼女の旅がはじまるが、これもう旅番組超えてるだろ。
十一話
VEGが徳育に使用される日も近い(断言)。
十三話
反戦、平和、罪と罰というテーマが作品に重厚さを与えるその一方で、作品に一貫して描かれるのは一対一という極小の関係性である。
この抽象と具体のバランスが共鳴を産んでいるように思う。
あとがき
愛し、愛される。与え、与えられる。
このたった二つだと思えば、人間はもっと楽に生きられるのではないか。
そしてこの二つで苦しんでいるうちは人間らしく生きられるのではないか。
その境界線を越えてしまった人間が、他者という名の社会を見限り
反社会的組織……奪うだけ奪う道へと歩んでいくのだろう…しかしあるいはその方がまだましである。
その勇気すら持ち合わせていない人間は突然事件を起こす。奪うだけに留まらず、人も自分も終わらせようとするのだ。
京都アニメーション放火事件にはじまり京王線殺傷事件etc…おそらく同様の事件はこれからも起こり続ける。
本記事ではそこへ至る社会構造の指摘は省略するが、
アドラー心理学に照らし合わせればその動機の根源は同じところにある。
人間最大の不幸は自分を愛せない事である。自分に絶望する事である。
それを生み出すのが他者という社会であるが、同時に自分から解放される最も有効な手段も皮肉な事にその他者という社会へのコミットなのである。
本作はまさに「みちしるべ」になる作品であろうと思う。
脚注
*1 個人心理学
アルフレッド・アドラーが創始し、後継者たちが発展させてきた心理学の体系。
*2 ライフスタイル
この文脈で使用される意味としては、個人が生きる上での、ものの見方・考え方・行動の傾向やクセ、信念・信条など。
性格や人格に相当するもの。
*3 原因論
過去の原因が現在の状況を作り出すとする考え方。
*4 トラウマ
心的外傷。
外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態で、また否定的な影響を持っていることを指す。
*5 勇気付け
ハッキリとした定義は存在しないが、一言で言えば他者に困難を克服する活力を与えることである。
ただしこの文脈において、対応として取られがちな報償や叱責する事をアドラーは否定している。
※嫌われる勇気ではアドラー心理学と共にギリシャ哲学にも踏み込んで描かれるが、ここでも一様にそれらをアドラー心理学として記述した。